第2章で、わたしが早稲田に入学した昭和43年に、立川談志の「大工調べ」をはじめて聴いたと書きました。わたしが書いたはじめての落語の文章も、この談志の「大工調べ」についてでした。
ところが、つい最近、この原稿が出てきたのです。随分と物持ちがいいですね、と言われそうですが、400字詰めの原稿用紙4枚ほどですが、いちおう人様にお見せするだけの感想文にはなっています。
ただし、原稿の最後に昭和44年3月12日とありました。記憶が1年違っていたことになります。この辺はかなりいい加減でまことに申し訳ありません。少々照れくさいですが、ここに公開することにいたします。
談志と与太郎
文楽の文字太夫師がこんなことを語ったことがある。「登場人物全部を語り分けるのは、不可能です。ですから私は一人を語るために、他の人物をすてて語ります」と。談志の「大工調べ」をきいたとき、私はまっ先にそのことを思いだした。
「大工調べ」に登場する人物は、大家、大工の棟梁、与太郎の三人(厳密に言えば大家のかみさんを加えて四人)だが、談志は与太郎を集中的に語るために、他の人物をつとめて手薄く取扱いながら演じた。与太郎を浮き彫りにするためには、ドラマの構成要素としての大家と棟梁の対立的描写が必要になるはずだが、その点での工夫が不足していたとはいえ、観客に話者が積極的に対するという試みはまず成功したといえよう。
たとえ、二人の描写不足はあるとしても、それ以上に問題の人・与太郎に我々的感情=アクチュアリティーを吹き込み、新しい像を作っていこうとするかれの態度は、大へん興味深かった。
そこでクローズアップされた談志の与太郎は、俗にいう「間ぬけでたりない」与太郎ではない。かといって「学がある」というのでもない。せんじつめれば、親から塾へ行かされている現代っ子のような、何のために大学へいっているのか自分でもわからぬ学生のような、与太郎である。無目的性のみが目だつニヒロスティックな、あるいは疎外された与太郎なのだ。
これまで演じられた“与太郎”のプロフィルや、呼び名からくるひびきからは、いかにも前近代的でのんびりしたものであったが、談志によって形づくられた与太郎は、間ぬけではあるが、間ぬけらしいのんびりした口調は微塵もない。それどころか、かえってせっかちでさえある。しかも、棟梁が、仕事が出来たから出かけようと誘っても、おっくうな体(てい)をする与太郎である。道具ばこがないだけの理由で、仕事に行くことを拒否するのではない、という描き方に談志の現代人的な眼が注ぎこまれていた。
前にきいたことのある、柳朝の「大工調べ」では、いかにもうまいと思い、与太郎も形どおりの与太郎(江戸・明治期の)として演じられ、その巧みな表現には感心もしたが、今、ふりかえってみると、私が「うまい」と思ったのは、そつなく話をまとめ、一語のまちがいもなく演じえた、その技量に対する評価であり、素材のそのもののおもしろさにあったのではないか、と思うのである。
それをきいているとき、私自身の頭の中で、小さんの「大工調べ」とそれがダブッていたことは事実であり、柳朝でなければ、という必然性は必ずしもなかったように思えてくる。ところが談志の噺をきいたときは、師匠小さんは不思議に浮かんでこなかった。
演者(噺家)が現代人であれば、噺の中に登場する人物に新解釈を加えなくとも、自然に現代性がニュアンスとしてでも表に出てくると思うのだが、そこまでみていて私はまだはっきりした断定はくだせない。つまり、談志が与太郎にどこまで意識的に、これまで描かれなかったような新しい人間感覚を取り入れようとしたのか、つまびらかではないし、談志の演じる与太郎の中に、だからどれだけ談志自身が入っているのかを、論ずるところまできていないというべきだろう。
しかし談志自身、暗中模索しながらも、かれの希求してやまない与太郎が、現代人の内面と関わろうとしているということ、そして談志の芸の持ち味が、それをどこまで深めるかの課題を担っているということだけは、言えるとおもう。
昭和四十四年三月十二日
上石神井にて